ブエノス小僧のイラストブログ

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野村合戦三(信長夜話・その90)

中華食材のテレビCMで、ぐっさんと回鍋肉?を取りあっているのは高畑充希だと思っていた。
「このCMのころと比べると、最近の高畑充希は大人びてきたものだなぁ・・・」とボクは思っていた。

ところが、そのテレビCMに出ているのは別人で、杉咲花というタレント(女優?)だという・・・
えっ!そうなの、えっ!似てるなあ!
共通遺伝子が多いのだろうか?



ということで、
前回の「野村合戦二」の続き、以下。

有名な「姉川の戦」は徳川氏の呼び名だ。
織田氏では地名の野村から「野村合戦」。
浅井氏では「辰鼻表合戦・たつがはなおもて」もしくは「野村合戦」。
朝倉氏では地名から「三田村合戦」と呼んだという。


元亀元年(1570)六月二十八日早朝

浅井勢六千は野村(地名)で織田勢一万五千と、
朝倉勢八千は三田村(地名)で徳川勢五千と、姉川を挟んで対峙した(兵数には異説あり)。

巳の刻(午前10時ごろ)、
野村(地名)では、浅井勢が姉川を渡河して織田勢を攻めた。
浅井勢は兵力でまさる織田勢を圧倒するも、しだいに織田勢に押しかえされる。
たまらず、浅井勢は北国脇往還を北へ退却した。

織田勢は小谷の近くまで追撃したという。
浅井勢の多くの死傷者は、このときに出たのだろう。

zanteki12.jpg
<傷ついたりして逃げおくれた兵は、よってたかってなぶり殺しにあっただろう。
野生の動物のように、
中には、命乞いをしたものもいただろう。

まだ息のある敵兵はとどめをさされた。
この戦に限らないが、戦ではねられた首のほとんどは足軽や雑兵だったといわれている。

こういった戦の後の処理は、このあたりまでではなかったか?
勝者は敗者の領地、領民を吸収して勢力を増していく。
大陸のような皆殺しの思想はなかっただろう。>




信長は再び横山城を包囲、これを無血開城させた。
定番として木下秀吉を置く。

さらに南の磯野員昌(かずまさ)が守る佐和山城(現滋賀県彦根市)を丹羽長秀に包囲させ、
翌年二月二十四日に開城させた。磯野員昌は退去。
員昌はのちに信長に仕える。

信長は戦に勝っても、勢いにのって小谷を攻めることはしなかった。冷静だ。
戦う可能性のある勢力は、他にもある。自軍の消耗を避けたのだろう。


「・・・首数の事、さらに校量(きょうりょう・比べ量ること)を知らず候の間、注するに及ばず候。
野も田畠も死骸ばかりに候。誠に天下のために大慶これに過ぎず候。」
六月二十八日付け、細川藤孝宛、信長書状(『津田文書』)

細川藤孝(ふじたか)は当時、将軍、足利義昭の側近だった。
藤孝は、この書状を義昭に見せるだろうと、信長は思っただろう。
信長の書状、それは将軍義昭への威圧でもあったのでは?

『津田文書』の他にも信長書状が残っている。
信長は「野村合戦(姉川の戦い)」の勝利を喧伝したのだ。


一方、「徳川対朝倉」を簡単に・・・

野村(地名)の西、三田村(地名)で、兵力の劣る徳川勢が朝倉勢とぶつかった。

徳川勢が攻める。
朝倉勢はジリジリと後退した。
朝倉勢の士気は低かったのだろう。

朝倉をのぞく三軍は当主みずからが出陣しているが、朝倉義景は出陣していない。
かわりに朝倉景健(従兄弟?)に総大将を任せた。

当主のやる気のなさは
上級指揮官→下級指揮官→兵へと、末端まで伝わるものだ。
事におよんでの朝倉義景の処し方をみると、戦国大名として、織田信長の敵ではなかっただろう。

そして、「野村(地名)で浅井勢が崩れた」という報が朝倉勢に伝わると。
朝倉勢は退却にうつった。良いところなしだ。

浅井、朝倉勢は退却の際、多くの戦死者を出した。
しかし、「姉川の戦い」から3か月後、浅井朝倉連合軍は志賀に出陣、信長と対峙している。
損害は限定的だったのだ。

「出る杭は打たれる」
この後、反信長勢力の抵抗が強くなっていく・・・


<番外>
姉川の戦いには、こんな説もある。

1、横山城を包囲していた織田信長は、浅井長政は戦いを挑んでこないだろうと思い、
姉川を背にして包囲を続けた。
それを、夜陰にまぎれたのだろうか?忍び寄った浅井勢が織田勢を背後から襲った。
野村合戦(姉川の戦いでの織田対浅井)は浅井勢の奇襲だった。
(ボクは信じていない)

2、初戦で織田勢を崩したのは礒野 員昌ではなく遠藤 直経(えんどう なおつね)だった。

3、徳川と朝倉勢はにらみ合っただけで、戦わなかった。
(本当かもしれない)



礒野 員昌(いその かずまさ)のこと
大永3年(1523年)~天正18年9月10日(1590年10月8日)

今回の野村合戦(姉川の戦い、織田対浅井)で先陣をつとめ、
優勢な織田勢相手に奮戦したといわれている礒野 員昌。

「礒野」はこの字だったようだ。

礒野氏は、代々京極氏の家臣であった浅井亮政の台頭に屈する形で浅井氏の配下に加わる。
父・員宗の死後、叔父の員清が家督を継ぎ、その跡を員昌が継いだ。

員昌は佐和山城(現滋賀県彦根市)を本拠とし、対六角氏戦で度々武功を重ねた。
(佐和山城は「関ケ原の戦」の時は石田三成の居城)

元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いで、員昌は先陣をつとめ、織田勢相手に奮戦する。
しかし、多勢の織田勢に押しかえされ浅井側は総崩れとなり敗退した。(浅井勢の敗因には他説あり)
員昌の猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残る(『浅井三代記』)。
(「員昌の姉川十一段崩し」は史実としての評価は低い)

野村合戦の後、礒野 員昌の佐和山城は敵中に孤立。
翌元亀2年(1571年)2月24日、佐和山城を攻撃され信長に降伏した(『信長公記』 )。

降伏後、員昌は佐和山城と引き換えに、近江国高島郡を与えられた。
この頃、織田家の宿将は、琵琶湖周辺に配置されていた。
この高島郡の拝領は、「横山の木下藤吉郎、佐和山の丹羽長秀、安土の中川重政、長光寺の柴田勝家、
永原の佐久間信盛、宇佐山の明智光秀」と同等という破格の待遇であった。
織田側も員昌を認めていたのだろう。

それにしても、ついこの前まで敵将だったのに・・・
員昌は、なにかスゴイおみやげをもっていったのだろうか?
但し、信長の甥の津田信澄を嗣養子とさせられている。
すなわち、次の代は津田信澄(織田一族)が嗣ぐことになる。

その後、員昌は天正元年(1573年)9月の杉谷善住坊(織田信長を狙撃した男)の捕縛。
天正3年(1575年)8月の越前一向一揆の鎮圧に従軍。

しかし、天正4年(1576年)正月には、津田信澄が高島より上洛しており(『兼見卿記』)、
また、同年12月に朽木商人宛に、天正5年(1577年)閏7月には横江祟善寺宛に、津田信澄が安堵状を発行している。
この頃には員昌の権益は縮小、または家督の譲渡が行われていたと考えられる。

天正6年(1578年)2月3日、員昌は信長の意思に背いて叱責され出奔、
領地の高島郡は津田信澄に与えられた。
信長の叱責の内容は不明。一説には家督を譲るよう、信澄や信長が迫ったのを拒んだためという。

出奔後の員昌の行方はわかっていない、
「本能寺の変」において信澄や信長が亡くなると、高島郡に戻って帰農し(帰農ですよ!)天正18年(1590年)に死去した。
68歳だった。

礒野 員昌は畑の空を見上げながら、なにを思ったのだろうか・・・(よくある表現だな)
ボクは映画「ゴッドファーザー」で、年老いたビトー・コルレオーネ(マーロンブランドが演じた)が、
トマト畑で亡くなるシーンを思いだす。


子の礒野行信以下の一族は石田三成、後に藤堂高虎(伊勢、津藩藩祖)に仕えた。
藤堂高虎はこの「野村合戦」に浅井勢の足軽として参加、手柄をたて浅井長政から感状をあたえられている。
その後、高虎は天正年間に、員昌に仕えていたことがある。

藤堂高虎はつぎつぎと主君を変え、慶長5年(1600年)の「関ケ原の戦」当時には大名になっていた。
足軽として参加した「野村合戦」から30年後だ。
豊臣秀吉までとはいかないが、大化けした。
高虎は、自分を正当に評価しない主君を見限って変えた、という逸話がある。
脱線した。

礒野 員昌の孫の行尚は、大坂の陣で藤堂軍に属して八尾・若江の戦いで増田盛次を討ち取る手柄を上げている。
娘は小堀正次に嫁ぎ、茶人・小堀政一を生んでいる。




谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。







  1. 2017/04/25(火) 12:40:43|
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