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ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

雑賀衆(信長夜話・その92)

前回の「野田・福島の砦(信長夜話・その91)」からの続き→


元亀元年(1970)七月二十一日
阿波で挙兵した三好勢は、八月、野田・福島に砦を築き、京をうかがう様子だった。

二十六日、将軍、義昭からの通報を受け、織田勢は三好勢の籠る野田・福島の砦へ攻め寄せた。
信長は天王寺に本陣を据え、先陣を城に密着させ、多くの陣地を築かせた。

野田・福島に籠っていたのは、細川昭元殿・三好長逸・三好山城守康長・安宅信康(あたぎ)・
十河存保(そごう)・篠原長房・岩成友通・香西佳清・三好為三政勝ら三好党および斎藤龍興・長井道利・
紀伊雑賀(さいか・現和歌山市)の鈴木孫市(孫一とも)ら、約八千であった。

織田勢、幕府奉公衆に対して三好方は両城(砦)に籠り、長期戦の構えをみせた。


信長は、まずは調略をかける(常套手段)。
すると、三好方の香西佳清と三好政勝が織田勢に内応、
城中に織田勢を引き入れる謀略をすすめていた。

三好党の二人だが、三好勢とて一枚岩ではなく、それぞれの思惑があった。
調略はかけるに値する戦術だった。

しかし、城中の警固は厳しく、謀(はかりごと)を断念せざるをえなかった。
八月二十八日、香西・三好の両名は城を脱出して天王寺に走った。内応がバレたのだ。

九月三日になると、
将軍・義昭が摂津国中島(現東淀川区)の細川藤賢(護熙氏の祖先)の居城に動座した
(「移った」でいいと思うのだが・・・)。
現在の阪急十三駅から十三公園付近だろうといわれている。

信長は将軍、義昭の出馬を強くもとめたという。
三好勢が公方様(将軍、義昭)の敵であることを、ハッキリと示したかったのだろう。
公方様(将軍)の権威が依然として強かったのだ。



野田・福島の砦に立てこもったなかに雑賀孫市(さいかまごいち・孫一とも)がいる。
今回は、雑賀衆と雑賀孫市のことを書く。

雑賀孫市の人気が全国区になったのは、故、司馬遼太郎著『尻喰らえ孫市』以来だったように思う。

司馬遼太郎ほど日本人(主に男)に支持された歴史小説作家もいない。
坂本龍馬といえば、いまや日本人の大好き人物だが、
司馬遼太郎著『龍馬がいく』、それに続くNHK大河ドラマ『龍馬がいく』から、
いっきに大人気になったとボクは思う。

それまでは「幕末で活躍した勤王志士のひとり」という程度の位置づけだった。
土佐勤王党の武市半平太(月形半平太)や長州の木戸孝允(桂小五郎)のほうが
ヒーローとしては格上だった。

「現在の龍馬人気を作り上げたのは、司馬遼太郎だ」とボクは思う。
そういう意味では、大したものだが・・・


脱線した。

紀州、和歌山のヒーローといえば雑賀孫市。
高知での坂本龍馬、上田での真田信繁(幸村)、新潟での上杉謙信、その地で悪口をいえば、
ただではすまないように?
和歌山では雑賀孫市の悪口は言わないほうが安全だろう。

nodafukusima22.jpg
<野田の砦と雑賀孫市(鈴木孫市)とした。
旗印は八咫烏(やたがらす)。
神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったという伝説上の大カラス。 三本足とされる。
サッカー日本代表選手の胸のエンブレム、3本足の黒い鳥はこのカラスなのだ。>



今回、調べてみた。
《雑賀孫市のこと》

雑賀孫市は謎が多い(史料もすくない)。

「孫市」 という通称は、雑賀党鈴木家 で代々使われていた。
なので、「雑賀孫市」は、この鈴木家の誰なのかはっきりしていない。

普通、雑賀衆 の 鉄砲隊長であった「鈴木重秀」という人であると言われているが、
鈴木家の当主「鈴木佐太夫」や、鈴木重秀の兄である「鈴木重朝」のエピソードも混ざっているらしい。

なので、「雑賀孫市」は雑賀(地名)の鈴木孫市(複数の孫市のこと)ということになる。
と前置きして・・・


雑賀孫市の生年と没年は不明とした。複数の孫市のことだから。
(鈴木重秀だとしても生没年はわからない)

雑賀孫市は雑賀衆のリーダーだったようだ(雑賀衆のことは後述)。
各地の戦いで、雑賀衆の 鉄砲傭兵集団を率いた。
傭兵なので、対価と引き換えに戦闘に参加する(義理の参加もあっただろう)。

元亀元年(1670)雑賀(さいか)と友好的だった本願寺が織田信長と戦うと、
本願寺側に参戦、雑賀鉄砲隊は織田勢を撃破する。

一人が鉄砲の掃除や火薬や玉ごめの発射準備をととのえ、もう一人が鉄砲を撃つ。
これにより連続射撃を可能にした、と言われている。
当然だが射撃上手が撃ち方をつとめた。
撃ち方は射撃に集中することが出来たから、命中精度もあがっただろう。

この説は、おそらく本当だと思う。
織田勢は攻めあぐね、信長は損害の多さに驚き、包囲、封鎖に切り替えた。
石山本願寺を囲むように多くの城(砦)を築いた。

雑賀鉄砲隊は信長に作戦変更をしいたほどの戦いぶりだったのだ。

当時、最強の織田勢を敵に回しての奮戦。
(甲斐の武田最強説?、越後の上杉最強説?などあるが、)
火力、戦術において、信長は自軍をしのぐ敵にはじめて遭遇した。

そして、この戦術的勝利が雑賀衆の名を轟かせた(現在にいたるも)。

その後も孫市は 織田勢 や織田方についた雑賀衆と戦い続ける。
(雑賀衆は一枚岩ではなく、複数の集団だった)

天正十年(1582)「本能寺の変」、信長の死後、孫市は 豊臣秀吉 の配下となり雑賀衆を後にした。
秀吉 が雑賀を攻めた際には降伏を勧める使者となり、両者の取次ぎ役を務めるが、失敗。

その後、豊臣の「鉄砲頭」となり朝鮮出兵では九州を守る。

秀吉死後、慶長五年(1600)「関ヶ原の戦い」では 西軍(石田三成側)として参戦。
伏見の戦いで 徳川 の重臣「鳥居 元忠」を討ち取る。
しかし、西軍が敗戦したために領地を失い浪人となる。

伊達 政宗に取り立てられる。
伊達の騎馬鉄砲隊は 大阪・夏の陣 で活躍した。
これは、孫市が雑賀に伝わる 騎馬鉄砲術 を伝授したといわれている。

その後、政宗 の取り成しで徳川家に仕え、水戸徳川藩の旗本としての余生だったという。

<注意>これらは複数の孫市の経歴だといわれている。


《雑賀衆のこと》

大阪の南に「紀ノ川」という大河がある。その周辺住んでいた人々が「雑賀衆」だった。
農業以外にも、紀伊の山からの鉱石の採掘や林業。鍛冶 などの工業技術も発達した。
さらに、瀬戸内海 と 太平洋 を結ぶ土地、海運、漁業、貿易、も盛んであった。

雑賀では農業、林業、鉱業、海運、漁業、鍛冶、貿易、など、それぞれに組合のようなものが出来ていた。
それらの代表が運営していた共同体、それが「雑賀衆」。
「雑賀衆」とは小勢力の集まりだったのだ。

戦国時代の雑賀衆は大きく分けて、5つの土地ごとの組合のようなものに分かれていた。
そして、それぞれが独自に行動していた。

また、雑賀衆(さいか)の近くには 「根来衆」 と呼ばれる勢力も存在していた。



1543年、九州の南、種子島に1隻の船が漂着、
この船に乗っていたポルトガル人が新兵器 「鉄砲」を持たらした。
種子島の豪族 種子島時尭は、二丁を金二千両で購入した。 

そして、この二丁の鉄砲のうち一丁を譲り受け、紀伊にもちかえったものがいた。
それが、雑賀と関係のある 「根来衆」 の津田監物だったという。
種子島時尭とは貿易を介して繋がりがあったのだろう。

そして、この鉄砲を元に 根来衆 の鍛冶屋 芝辻清右衛門が試作に成功
(なんと、堺衆ではない!)。
それが雑賀にも伝わり、雑賀衆・根来衆 は鉄砲集団へと変わっていった。

鉄砲を量産。それが出来たのは、雑賀や根来が優れた鍛冶技術を持つ集団だったからだ。

鉄砲には火薬が必要だ。
当時、日本では材料となる硝石が取れなかった。
しかし、雑賀や根来では、活発な貿易を通じて硝石を入手出来た。
鉄砲を戦術化する条件をそなえていたのだ。



戦国の世、雑賀衆は要請を受けて傭兵を派遣していた。
それが、最新兵器、鉄砲を装備したわけだから、各地の勢力から頻繁に援軍を依頼されるようになる。
「雑賀を制すものは全国を制す」 とさえ言われたという。

鉄砲を装備した傭兵集団として注目された 雑賀衆 は、三好と織田が戦うと、
織田に雇われて 織田勢と共に戦った事もあった。

しかし織田信長は、元亀元年(1670)、一向宗の「本願寺」と全面戦争に突入する。
雑賀衆 には一向宗の門徒が多く、本願寺の本拠地である大阪(石山)にも近い。
本願寺とは友好的な関係にあった。
そのため、「雑賀衆」は本願寺の要請を受け、織田と戦う事になる。

かたや「根来衆」は真言宗の根来寺を中心とした宗教勢力だった。一向宗ではない。
それもあって、根来衆は 織田を支援、この影響で根来衆に近かったいくつかの雑賀衆も織田に味方した。
雑賀衆は分裂した(そもそも一枚岩ではない)。

織田側 に味方した雑賀衆はそれほど活躍していないという。
雑賀衆同士での戦いは避けていたらしい。

一方、本願寺を支援した 雑賀衆 は大活躍する。
石山本願寺を援護し、鉄砲の連続発射によって織田を撃破、攻め寄せる織田勢をことごとく撃退。
この戦いで 雑賀鉄砲隊の指揮を取ったのが、雑賀孫市(鈴木孫市)だった、と言われている。

そして、信長と本願寺との戦いは、十年におよぶことになる。



信長 は 本願寺との戦いが膠着状態と判断したのだろう。雑賀を先に討伐することにした。
雑賀に攻め寄せた。十万の大軍、織田の主力だった。 
雑賀孫市はこれを迎え撃ち、損害をあたえるが、多勢に無勢、雑賀衆は消耗、孫市は降伏した。

雑賀衆 は分裂状態となる。
孫市、率いる 本願寺派 と、根来衆に近い 織田派 の雑賀衆だ。
雑賀孫市 の雑賀衆が「雑賀党」、根来衆に近い雑賀衆は「太田党」と呼ばれた。
「太田党」は太田定久とその一族がリーダーだった。

その後の孫市の消息は各説あってハッキリしない。



「本能寺の変」で信長が亡くなると、豊臣秀吉 の時代が来た。

秀吉 は、雑賀衆や・根来衆 が持っていた紀伊の独自支配を認めなかった。
秀吉 は統一した制度で日本を統治しようとした。特例は認めなかったのだ。
それに 雑賀・根来衆 は反発。

そんなとき、秀吉 と 徳川家康 が対立、家康は 雑賀衆・根来衆 に傭兵としての援軍を求めた。
「太田党」が主導する 雑賀衆 と 根来衆 は、秀吉 と 家康 が戦っている間に(「小牧・長久手の戦い」)、
紀伊の 豊臣方を攻撃、秀吉軍の背後を脅かした。


しかし秀吉 と 家康 が講和。
豊臣秀吉 は敵対行動を取った 雑賀・根来 の討伐に動く。
今回も十万の大軍だったという。

雑賀・根来軍 は合わせて約2万、篭城戦で迎え撃つ。
当初は 根来衆 が活躍するが、次第に根来の城も 陥落、本拠地の 「根来寺」 も炎上した。
残った 雑賀衆 も次々と 秀吉軍 に降伏。「根来衆」は消滅した。

そんななか、雑賀衆 の「太田党は、秀吉に徹底抗戦の構えを見せる。
秀吉 はこの「太田党」を降伏させるべく、すでに配下となっていた雑賀孫市が説得に向かうが失敗。

太田党は「太田城」に篭城し、謎の兵器「飛んできて火炎と煙を噴出す筒」(手榴弾?)を使って抵抗。
手をやいた秀吉 は太田城 の周りに堤を作り「水攻め」にした(秀吉の得意技)。

大雨が降り水攻めは成功、太田城は兵糧もなくなり、
太田党 の武将達は自害、城兵は降伏、こうして 雑賀衆 は消滅した。


雑賀衆 は、時の権力に歯向かい、自治権を主張、敗れ消滅する。
「爽やかさ」を感じる。敗れたのが良い。
司馬遼太郎が小説(小説です)にしたのも、わかるような気がする。


次回、「信長公記・その93」に続く→




●《雑賀衆と雑賀孫市》
http://kamurai.itspy.com/nobunaga/saiga.htm
●谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税
を参考にしました。




  1. 2017/11/01(水) 07:10:55|
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