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ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

顕如光佐(信長夜話・その95)

織田信長の強敵はいくつか挙げられている。
甲斐の武田、越後の上杉、中国の毛利、将軍、足利義昭・・・だが、
最大の敵は「本願寺と顕如」だろう。

経済力、結束力(宗教的、士気)、連携力(ネットワーク、対信長包囲網)、武力(傭兵も含めて)、
広域性(各地に支部?がある)などなど・・・

敵対勢力の戦国大名の配下にも一向宗門徒(本願寺門徒)が少なからずいた。
越後の上杉、薩摩の島津、越前の朝倉などは一向宗と対立、
薩摩の島津はこれを禁じた。
薩摩では「隠れ念仏」という「隠れ一向宗」がいた。

キリシタンへの弾圧や殉教は、小説に書かれ、映画で描かれ、記念館がある。
比べると、一向宗へのそれは、ほとんどない(わずかだが関連本がある)。
日本人はキリシタンにやさしい(偏っている)ようだ。西洋に弱い。

脱線した。

徳川氏の三河でも一向宗に手を焼いている。
並大抵の相手ではない。


今回は信長と約11年にわたって戦い続けた浄土真宗本願寺、第十一世宗主、顕如(けんにょ)について

顕如は号で、諱は光佐(こうさ)、本願寺を冠して「本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)」とも呼ばれる。
「顕如光佐」、良い名だ。

天文十二年(1543年)1月7日、本願寺第十世・証如の長男として顕如は生まれた。
母は庭田重親の娘・顕能尼。
これが本当なら(本当だろう)、織田信長より九つ年下だ。

天文二十三年(1554年)8月12日、父、証如が重態となり急いで得度が行われた。
翌13日、本願寺を継いだ。
祖母・鎮永尼の補佐を受けて教団を運営する。このとき、顕如、十一歳

弘治三年(1557年)4月17日、細川晴元の養女、如春尼と結婚。
本願寺は妻帯して良い(宗祖、親鸞は肉食妻帯した)。
如春尼の実の姉は武田信玄の正室・三条夫人であり、信玄と顕如は義兄弟にあたる。


顕如の時代、本願寺教団は、門徒による一向一揆の掌握に務めた。
本願寺の浄土真宗の教えには 「王法為本」 というものがある。
これは 「時の統治者(権力者)に従い、政治と秩序を助けることが仏法の道である」 という考えだという。

そして、顕如は管領の細川家や京の公家との縁戚関係を深めた。

要衝である石山本願寺を拠点として、
畿内を中心に寺を配置し、有力大名に匹敵する力をもつようになる。
教団は最盛期を迎える。

1568年、織田信長が足利義昭と上洛すると、顕如自ら織田信長に挨拶をした。

「信長の可能性は未知数だが、治安を回復するのなら歓迎する」という思いだったのだろう。
信長からの5000貫の矢銭(軍資金)の要求も、スンナリと応じた(内心はわからない)。

「まずは相手の出方を見よう、要求があれば一つや二つは呑んでやろう」と顕如は考えたのではないだろうか(ボクの想像)
信長に対して「王法為本」の姿勢だったのかもしれない。

本願寺は武家の封建関係の枠外で権力を握っていたことから、
比叡山延暦寺や堺の町衆などと同様に、信長による圧迫を受けるようになる。
(朝廷、寺社、幕府(将軍)、戦国大名、など異なる権力が複数あった)

信長はさらに要求してきた。
浄土真宗(一向宗)の信者の動きの報告、本願寺として命令を出す際には、信長の許可を取ること、
他の大名家との交渉はやめること、など

kennyo112.jpg

<イラストは石山本願寺の御影堂と阿弥陀堂の前に集まった門徒衆、傭兵たち、とした。
阿弥陀堂は名のごとく阿弥陀如来を安置する。
御影堂は宗祖親鸞や、その師匠、法然の御影を置く。
東(大谷派)と西ではお堂の位置が逆らしい。

イラスト真ん中は顕如。
信長と戦ったぐらいだから、脂ぎった坊主を連想していたが、残っている肖像画を見ると、ほっそりとして知的な感じがする。
目と目の間が広い、鼻が長くて大きい、顔は顎に向かって細く、らっきょのようだ(失礼)。

一休(宗純)や親鸞の肖像画ほどではないが、なかなか良い画だ。
「こんなオジサンいるよなぁ」と思わせる。

肖像画の顕如は目が涼しい。素直な感じがする。
しかし、イラストはボク流に「一癖ある顕如」にしてみた。

本願寺は出陣にあたって、「進むは極楽、退けば地獄」 と鼓舞したという。
高揚感に包まれた多くの門徒衆がいただろう。

しかし、違和感を感じたものもいたのではないだろうか?

「・・・阿弥陀仏の本願を説いて、人々を、本当の幸せに導く為・・・」
と説くが、状況が変われば「人を殺してこい」というのか?矛盾。
「浄土思想を利用した戦意高揚」だ。
暴力と人殺しを生業とする武士と比べると、よく言えば柔軟。悪く言えばズルい。

戦国時代の有力宗教教団は武装していた。「仏+武」だった。

崇高な理想ではじまったものが、ひとたび組織化されると、たちまち組織の存続、発展が第一義となる。
いつもそうだ。>



本願寺内部にはタカ派もいれば、ハト派もいた。
信長からの要求を呑んだことからすると、
顕如は当初はハト派だったのではないだろうか(ボクの想像)

しかし、信長からのさらなる要求、本願寺内部のタカ派からの突き上げ、
本願寺の総合力(軍事力や経済力、)への自信、信長包囲網形成の自信、三好党との密約(ボクの想像)
などが決断させたのだろう。
顕如は信長と敵対する。

元亀元年(1570年)に本願寺と織田氏は交戦状態に入った。
このとき、信長37歳、顕如28歳。


「本願寺×信長」の戦いの経過については、これからの「信長夜話」で書くので省略。

話は一気にとんで、天正8年(1580)正親町天皇の勅によって信長との和議が締結、
本願寺は紀伊(和歌山県)鷺森に移ることになった。
事実上の「本願寺の負け」である。信長47歳、顕如38歳。

「本能寺の変」信長の死・・・

信長に代わって実権を握った羽柴秀吉と顕如は和睦。
秀吉は石山本願寺の寺内町に大坂城と城下町を整備した。
天正十三年(1585年)大坂郊外にある摂津中島(後の天満の町)に移転して天満本願寺を建立。
ルイス・フロイスによると「秀吉の宮殿の前方にある孤立した低地」だったという。

秀吉は「住居に壁をめぐらしたり堀を作る」ことを禁じた。
本願寺は豊臣政権の強い統制下に置かれることになった。

この年、顕如は大僧正に任じられ、翌天正十四年(1586年)には准三宮の宣下を受ける。
また、秀吉から九州平定に同行するよう命じられ、下関滞在。

天正十七年(1589年)、聚楽第の壁に政道(秀吉の)批判の落書が書かれる事件があった。
その容疑者が本願寺の寺内町に逃げ込んだという情報と、秀吉から追われている「斯波義銀・細川昭元・尾藤知宣らの浪人が
天満に潜伏している」という情報を入手した豊臣政権は、
石田三成に命じて寺内町の取締強化と、これらの者を匿ったと断定された2町を破壊する厳しい成敗を行わせた。

肝心の浪人らは見つからなかったが、彼らを匿った罪で天満の町人63名が京都六条河原で磔となった。
顕如も秀吉から浪人の逃亡を見逃した理由で叱責を蒙り(『言経卿記』)、
さらに容疑者隠匿に関与したとして、あの蓮如の孫にあたる願得寺顕悟が自害を命じられた。


信長に敵対して、一時、信長を追いつめた「本願寺顕如」とは思えない。
「王法為本」にもどったのだろうか?

強大な権力は顕如一代のもとで失われていった。本願寺の絶頂期と衰退期を顕如は見たのだ。
天正十九年(1591年)には秀吉から京都七条堀川の地に移転を余儀なくされた。
翌天正二十年(1592年)11月24日に50歳で顕如は示寂した(亡くなった年齢が信長とほぼ同じだ。)

顕如が亡くなると、石山退去時、信長と和睦した顕如に反発した強硬派の長男教如(きょうにょ)に替えて、
三男の准如(じゅんにょ)が十二世宗主に立てられた。秀吉からの要請(圧力)があったといわれている。

本願寺内部での対立が進行する中、徳川家康が京に新たな寺地を寄進。
教如は慶長七年(1602年、「関ケ原の戦」の2年後)に独立して東本願寺を設立。
こうして本願寺は准如の西本願寺と教如の東本願寺とに分裂することになった。

家康の本願寺弱体化対策だったのだろう。
信長、秀吉、家康が本願寺の力を削いでいったのだ。
それほど強大であったということだろう。

本願寺の分裂には、そんないきさつがあった。









  1. 2018/03/27(火) 07:35:11|
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