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ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

上町台地の北の端(信長夜話・その96)

今回は、信長と約10年にわたって戦った顕如の本拠地、「大阪本願寺」(石山本願寺)のこと。

普通、「石山本願寺」と呼ばれることが多い。
秀吉時代に天満に本願寺が移されたため、後世、それと区別するため「石山本願寺」と呼ばれることになった。(異説あり)
当時は「大阪本願寺」と呼ばれていたようなので、今回は「大阪本願寺」とする。

明応五年(1496)、あの蓮如がこの地に御坊を築く。
大阪平野を南北に連なる上町台地(うえまち)の北の端。大阪市内唯一の台地。
その後、大阪本願寺(石山本願寺)は寺内町とともに発展、豊臣時代を経て大都市、大阪となる。
大阪人は秀吉好きだが、蓮如にも感謝したほうが良いかもしれない。

当時は「虎狼のすみか」だったといわれていた。
森や藪だったのかもしれないが、それほど辺鄙ではなかったのではないだろうか?
近くに古くからの交易の要衝「渡辺津・わたなべのつ」があった。

渡辺津は、淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運海運の拠点だ。(大量輸送の手段は船だった)
さらに、京や堺、和泉・紀伊、山陽方面をつなぐ陸上交通の要でもあった。
多くの人が行きかい賑わっただろう。


渡辺津から台地に上がる急坂があった。これを「大阪」と呼んだ。
「大阪本願寺」の名の所以だという。

上町台地の北の端ということは、そこで台地は終り、低地へ下ることになる。
そこには大和川や淀川が海へと流れ込んでいた。
大阪を流れる多くの川が集まる場所だった。

大小の洲や湿地が、あちらこちらにある複雑な地形だ。
防衛上の利点、交通、交易の要衝。
「信長が欲しがった」という説が一般的だ。おそらくそうだろう。
信長より前に、この地に目をつけた蓮如はスゴイ!


isiyama143.jpg

<イラストは天満森(てんまがもり)上空から台地上の大阪本願寺城(城と呼ぶにふさわしい)を望む。
右の川を挟んだ集落が「渡辺津」。

本願寺城の南には天王寺(信長が第一次石山合戦のとき、最初、本陣を置いた)。
その先、遠くは河内長野から高野山。
イラスト向かって右は大阪湾が近い。正面後方は南都(奈良)方面。左後方は京へつながる。

だいたいこんな感じだったようだ。
信長との和議成立後、大阪本願寺は焼失。その地に秀吉が大阪城を築いた。
現在、秀吉の大阪城は発掘調査中だ。
顕如時代の本願寺は、まだわからないことが多くあるのだろう。

イエズス会、ガスパル・ヴィレラが永禄四年(1561年)8月の手紙に大阪本願寺のことを書いている。

『・・・日本の富の大部分は、この坊主の所有である。
毎年、はなはだ盛んな祭りを行い、参集する者ははなはだ多く、
寺に入ろうとして門の前で待つ者が、開くと同時にきそって入ろうとするので、常に多くの死者を出す。
・・・夜になって坊主が彼らに対して説教をすれば、庶民の多くは涙を流す。
朝になって鐘を鳴らして朝のお勤めの合図があると、皆、御堂に入る。・・・』と、

イラストは「図説・戦国合戦集」学習研究社 ¥1,900+税、を参考にしました。>



大阪本願寺は、堀、塀、櫓を設けて防備力を増していき、「寺内町」が形成された。
大陸の城郭都市のようだ。
御坊を中心に、その周辺に法主一族や有力家臣の屋敷があった。
住民は商人、職人、農民、のほか、芸能民なども住んでいたという。
経済発展とともに町は拡大、「摂州第一の名城」と言われるほどになり、「大阪本願寺城」とも呼ばれるようになった。

顕如は「大阪本願寺城」にあって、織田信長との約10年間を戦うことになる。
(「大阪本願寺城」周辺の戦いは数回)
織田水軍が勝った「第二次木津川口の戦い」以後、天正六年(1578年)~天正八年(1580年)の約1年半、
無補給で耐え続けた。日本史上まれだ。



<蓮如~顕如の大阪本願寺>

明応五年(1496)、八世、蓮如が御坊を築く。

延徳元年(1489年)蓮如は法主を実如に譲り、山科本願寺に隠居した。
しかし、布教活動は盛んに行っている。

明応五年(1496年)9月に坊舎(大坂御堂)の建設を開始。、
これを中心に建設された寺内町が大坂の元となったと言われている。
建設には堺の町衆、摂津、河内、和泉、北陸の門徒衆が協力した。

明応六年(1497年)4月に上棟があり、11月には寺院が完成した。

永正三年(1506年)、「実如」は、摂津、河内の門徒衆の反対を押し切り、本願寺として初めて参戦した。
細川政元と畠山義豊との「明応の政変」以降の戦いに対して、細川政元から強く参戦を求められていたのだ。
ということは、すくなくともこの時までに本願寺は相当の武力を有していたことになる。

享禄四年(1531年)、本願寺教団内部で対立が起こるが、これを抑えて法主の指導力を強化した。
(後の「山科本願寺の戦い」まで含めて「享禄・天文の乱」と呼ぶ)

享禄五年(1532年)5月、河内の飯盛山に立て籠もった木沢長政を
主筋である畠山義堯、三好元長、筒井氏の連合軍が攻めた。

実如の後継者「証如」は、細川晴元からの救援の要請に応じて大坂本願寺から門徒衆2万の兵を率いて参戦。
6月には、攻囲軍を退散させる(飯盛城の戦い)。
2万の兵といえば、一流の戦国大名の動員兵力だ。

さらに一向一揆は三好元長(法華宗)を堺まで追い回し、自害に追いやった。
続々と集まった門徒は10万まで膨れ上がったと伝わる(10万ですぞ!)。
しかし、ここで解散をしないで大和へも乱入。(本部の制御が効かない状態だったのだろう)

天文元年8月初旬、一向一揆に危機感を覚えた細川晴元が本願寺の末寺や大阪本願寺に攻撃を仕掛けてきた。
晴元からの要請に応じた法華一揆衆や六角定頼らは同年8月23日、3万から4万の兵で山科本願寺を寺内町共々焼き討ちにした(山科本願寺の戦い)。
(法華衆も武装していたのだ、現在の仏教とは大違い!)

この時、証如は大坂にいた。そして大阪本願寺時代が始まる。
山科本願寺から持ち出された仏像も転々としたのち、ようやく翌天文二年(1533年)7月25日に鎮座。
この年を築城年とされている。この鎮座の時期が理由だ。

この間も細川晴元と大阪本願寺との戦いは続き、木沢長政や三好長慶らが大阪本願寺攻めに加わった。
敵味方がクルクル変わる。
大阪本願寺では坊官(最高指導者の家政を担当した僧侶のこと)の下間頼盛が指揮官として赴任、
紀伊の一向門徒衆にも援軍を要請したりした。

天文四年(1535年)11月末、「山科本願寺の戦い」から約4年後、ようやく両者で和議が成立。
下間頼盛は一揆を扇動した罪で兄の下間頼秀と共に本願寺から追放。後に暗殺された。
(前年の天文三年に織田信長が誕生している)

戦いの中で大阪本願寺は寺領を拡大、城郭の技術者を集め、周囲に堀や土塁を築き、
塀、柵をめぐらし寺内町の防備を固めた。
証如の時代、すでに堅固な城郭都市になっていたと考えられている。

証如時代には中央や戦国大名家への外交が展開された。
天皇・公家衆への接近。戦国大名、甲斐の武田氏、相模の北条氏と親交を結ぶ。
そして敵だった細川晴元の養女を長男、顕如の正室に迎い入れるなど、
戦国大名と同盟を結んで大阪本願寺の絶頂期をむかえた。

証如の後継者、十一世「顕如」の時代となり、本願寺は織田信長と衝突することになる。
そのいきさつは「信長夜話」で書くので、今回は省略。






  1. 2018/04/17(火) 08:10:55|
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