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ブエノス小僧のイラストブログ

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三左衛門可成の戦い(信長夜話・その98)


ブログカテゴリー『信長夜話』をサボっていた。


『浄土真宗と一向宗は同じ?(信長夜話・その97)』からの続き→


織田信長にはいくつかのピンチがあったが、
元亀元年からの6~7年は正念場となった。


その元亀元年(1570)九月十二日夜半、石山本願寺の鐘が突如打ち鳴らされた。
織田勢の「楼の岸」「川口」の砦に鉄砲が撃ち込まれた。
石山本願寺が敵対したのだ。

それまで、三好勢がたてこもる野田、福島を包囲して、織田勢に有利な戦況だったのが、
一転、予断を許さない状況になった。

十四日、淀川の春日井堤で信長の馬廻り(親衛隊)と一揆勢が激突。
馬廻りは一揆勢を押し返す。

二十日、一揆勢は榎並(えなみ・現大阪市城東区)を攻撃、
将軍(足利義昭)の直臣、野村越中守が討死する。
(ここまでは前回までに書いた)



二十二日、信長に報せが入る。
それは、宇佐山を守っていた森可成の戦死だった。

遡る十六日、浅井・朝倉勢は琵琶湖西岸の下坂本まで進出してきたのだ。



今回はその「宇佐山の戦い」

元亀元年(1570)九月十六日、朝倉・浅井の連合軍は琵琶湖西岸を南下して下坂本まで進出、
三万とも四万とも(信長公記・言継卿記)、大軍だった。
本願寺顕如の檄文に呼応した一揆勢や叡山の僧兵も加わっていたと思われている。

3か月前の「姉川の戦い」の朝倉・浅井へのダメージは信長が喧伝したほど深くはなかった(ボクの想像)。
このとき、信長は本願寺との和睦の交渉中だった(決裂する)。


宇佐山城は琵琶湖西岸、標高336mの宇佐山にある、琵琶湖まで約1km。
琵琶湖から京へと通ずる要路を監視する位置にある。
叡山(比叡山延暦寺)への監視任務もあったのだろう(比叡山はすぐそば)。

城には信長の宿将のひとり森三左衛門可成(さんざえもんよしなり)と、
急をきいて駆け付けた織田九郎信治(のぶはる・信長の弟)の二千を加えた総勢三千。

九月十九日、森可成は千ほどの兵を率いて宇佐山城を出撃、坂本の町はずれで朝倉・浅井勢を迎え撃った。
10倍以上の敵、大した度胸だ。
交戦し朝倉浅井軍を押し返す。


nigeruazai334.jpg
<坂本で朝倉・浅井勢を押し返す森可成勢とした。>


九月二十日、朝倉・浅井+一揆勢は二手に分かれて再び坂本口へ殺到。
可成は坂本の町口で敵を迎えうつが、大軍にのみこまれ、
激しい戦いの末、森可成、織田信治、尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、同助十郎、
青地茂綱(あおじしげつな)など100人ほどが討死した。可成48歳。
この時、信長、37歳。


朝倉浅井勢は勝ちに乗じて宇佐山城を攻め、出城へ火を放つ。
しかし、城を守る武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門は善戦してもちこたえた。

九月二十一日、朝倉・浅井勢は宇佐山城攻撃を中止して、京に入り山科、醍醐(現伏見区)に放火、
二条の将軍御所をめざす気配だった。



<森三左衛門可成(さんざえもんよしなり)のこと>

森氏は元を辿ると源氏の家系(異説あり)。

大永3年(1523年)、可成は森可行の子として尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれる。
美濃の守護大名である土岐氏に仕える。

斎藤道三が土岐氏を滅ぼすと、天文二十三年(1554年)尾張で織田信長に仕えた。
可成31歳、信長19歳。

信長の家督相続と尾張統一に尽力、
弘治元年(1555年)の信長による清洲城攻めでは、織田信友(広信)を討つ手柄を挙げる。

弘治二年(1556年)に美濃国で政変が起こると、信長の義父の道三を援助。

信長とその弟・織田信行の家督争いである「稲生の戦い」にも参陣、勝利する。
この時、あの柴田勝家は敵である信行方についた。

永禄元年(1558年)の「浮野の戦い」、永禄3年(1560年)「桶狭間の戦い」などにも参加。


信長が父信秀から家督を継いだとき、織田の重臣たちから信長は疑問視されていた。
「桶狭間の戦い」で従った軍勢が三千だったのも、それが一因だったという説がある。
「尾張の経済力をもってすれば、もっと動員できただろう」と、

そんな不安定な立場だった信長に可成は仕えた。
信長の可成への信頼がうかがえる。
後に、可成の子、蘭丸(成利)、坊丸、力丸、の三人を小姓としてそばに置いたのも
その一理由だろう。


美濃攻略においても武功を上げる。
美濃斎藤氏さらに東美濃に侵攻してきた武田勢とも戦う。
永禄8年(1565年)には美濃金山城を与えられる。

信長上洛の際には柴田勝家と共に先鋒を務め、上洛後、今回の近江宇佐山城を与えられる。

元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いにも参戦。
浅井勢の先鋒、磯野員昌隊の突進を食い止める
(この突進で織田の前衛が崩されたという説がある)。

戦歴を並べ立てるとキリがない。
信長の合戦にことごとくに参加、ことごとく手柄を立てている。

可成は槍の名手だったといわれ、関兼定銘の十文字槍の使い手だった。
武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名をもつ。
戦で指が一本欠けており手足の指が合わせて19本であったため
「十九」という蔑称で呼ばれたことがあったという。

こうしてみると森可成は勇猛であったことがわかるが、
美濃攻略の際には美濃三人衆の調略に成功、これが決定打となったといわれている。

信長の上洛後、京周辺の寺社や堺の会合衆などに宛てて
多くの文書を発給しており、政務にも大きく関わっている。
(武勇偏重でもなかったようだ、有能!)

信長は可成の死を深く悲しみ、直後に弔い合戦として比叡山延暦寺を焼き討ちをしたという。
(ボクは疑問だ。そんな理由で焼き討ちをするだろうか?)

uchijini3221.jpg
<こんな弔いはあるはずもない。ボクの創造(でっちあげだ)

正面の甲冑は森可成所要といわれる。
しかし、スゴイ兜ですな。こんなんで戦闘ができるのだろうか?
実戦では動きやすい兜を着用したのかもしれない(ボクの想像)。
可成ぐらいになれば複数の甲冑をもっていただろう。

背中のふたりは次男の長可(ながよし)と三男、成利(蘭丸)。

ルイス・フロイスは書く(たしか)
「我が国では喪にふくすとき黒い着衣だが、この国では白だ。」と・・・>



可成は「正室えい」との間に六男三女をもうけた。
上から、可隆(越前敦賀で討死、19歳)、長可(後の小牧長久手の戦いで討死、26歳)、
成利(有名な蘭丸。乱とも、お乱とも、本能寺で討死、18歳)、坊丸(本能寺で討死、17歳)、
力丸(本能寺で討死、16歳)、忠政(後の美作津山藩初代藩主)、
碧松院(関成政室)、娘(青木秀重室)、うめ(木下勝俊室)

子供たちも血なのか勇猛であったようだ。

いかがでしょうか、可成のみならず実子、六人の男子のうち五人までもが「討死」。
戦国の世とはいえ、「正室えい」の悲嘆を思う。



<可成寺(かじょうじ)のこと>

数年前、ボクは森可成の墓のある可成寺(かじょうじ・現岐阜県可児市)を訪ねたことがある。
ボクは散歩の遠征をする。
そのひとつ岐阜県八百津町<日本のシンドラー。杉原千畝の故郷とされている(異説あり)>
の近く兼山町に可成寺はある。
兼山町は山と木曽川に挟まれた川沿いにある細長い小さな町だ。

可成寺は可成の居城、美濃金山城(兼山とも)の麓にある小さな寺だ。
妙向尼が宇佐山で戦死した夫・森可成の菩提を弔うため長可を開墓とし、栄厳禅師を請して創建したという。

寺の墓地には、可成をはじめ、可隆、長可、成利(蘭丸)、坊丸、力丸の墓がある。
思ったより小さな墓だ。
手を合わせてきた。訪ねたときは誰一人いなかった。

金山城は山の頂上に本丸跡がある。
本丸跡近くまで舗装道路がある。

戦国期の山城跡に登ると、いつも「なるほどね!」と思う。素晴らしい見晴らしなのだ。
眼下の軍勢やその移動が「手に取るように」だったのではないだろうか、

おそらく、城からの視界を遮るような木々は伐採されていただろうから、
今よりも視界がきいただろう。

視力自慢が見張りに立ったのだろう。



可成寺は人気のある蘭丸(「乱」とも「お乱」とも呼ばれた)ゆかりの寺だ。
兼山町はもっと観光に力を入れてもいいように思う、もったいない。
余計なお世話か・・・


「信長夜話・その99」に続く→



  1. 2019/03/19(火) 07:42:26|
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