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ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

和睦(信長夜話・その104)

新型コロナウイルスで世界は大混乱だ。
ボクは生まれて初めての経験だ。

政府の対応にも批判があるが、政府も医療機関も国民も手探りなんだろう。

ニュースキャスター二人がテレビ画面の端と端で話していた。良いことだ。
「人混みは避けましょう」などと言っていても、「真横で話しているじゃん、それほどでもないんだな」
と視聴者は瞬時に推測する。

至近距離で声をはりあげてるところをテレビで見るが、「大丈夫なんだろうか?」と心配になる。

ボクは日常の買い物をしている、なるべく客のすくない(ヒマな)店に行く。
レジで1m以上の距離を保って待つ(本当は2mが希望)。
ところが、ボクの後ろの人は1m以内だ。

外国ではスーパーに入館できる人を制限したり、入館を並んで待つ人も2m以上離れている。
そうした方が良いとボクは思う。

不謹慎かもしれないが、新型コロナウイルスは自然の摂理なのかもしれない、と思ったりする。




前回の<信長夜話・その103>の続き→

信長と朝倉+浅井+叡山とのにらみ合いは2ヶ月に及んだ。
「堅田の戦い」は織田方の負けだった。

このままにらみ合いが続けば、反織田勢力が増えるのを信長は警戒した。
11月30日、信長は朝廷と将軍義昭を動かして講和を策した。

『信長公記』には朝倉側から講和の働きかけがあった、と記されている。
筆者、太田牛一が仔細を把握できなかったのか?主君信長に気をつかったのだろうか?


関白・二条晴良(はるよし)が動き、将軍義昭とともに調停役を務めることになった。
晴良はこの調停に失敗したら、職を辞して高野山に引き籠る覚悟だったという。

晴良は朝倉の陣に使者を送り、義景を説得、義景も浅井長政と延暦寺の意向を尋ねるなど、
和睦に前向きな姿勢を見せた

朝倉義景には雪の心配があった。

比叡山~木之本~木の芽峠~敦賀のルートは雪深い。
大雪になれば、本国の越前との通路が断たれてしまう。
ボクはずいぶん前だが、雪のため大渋滞にまきこまれたことがある。



ところが、延暦寺は晴良の調停案に異議を唱えた。
晴良は正親町天皇に、「延暦寺領の安堵」の綸旨(りんじ)を出してもらい、なんとか延暦寺にも承知させた。
ということは、信長が寺領安堵を調停案に入れていなかったのだろう。

<注、綸旨(りんじ)=蔵人所(くろうどどころ)が天皇の意を受けて発給する命令文書。
綸旨とは本来は「綸言の旨」の略。
平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の奉書を指すようになった。
天皇の権力が弱まれば綸旨の効き目も弱くなった。>


講和にあたって、信長は強気に出た。
江北の支配に関しては、3分の1が浅井、3分の2が織田という条件を突きつけた。
これを浅井はのんだようだ。渋々だったにちがいない。

講和条件のなかに「横山城を浅井へ返還すること、佐和山城の包囲を解くこと」があった。
信長はむかついたことだろう。

信長はこの要求を和睦交渉で呑んだ。
しかし、その後も横山城返還はせず、佐和山城包囲もやめなかった。
和睦条件を無視したのだ。信長のほうが役者が上だったということだろう。

横山城は浅井氏の本拠地である小谷城(滋賀県湖北町)の
西側を通る北陸脇往還街道の脇にある。小谷から7kmほどだ。
「姉川の戦い」で織田方が横山城を奪い、木下秀吉が城将として入っていた。
対浅井氏の前線基地だった。

佐和山城は現彦根市佐和山にあった、交通や軍事の要にある。
(後に石田三成が入ったぐらい)
「姉川の戦い」以後、丹羽長秀が包囲して大詰めを迎えていた。
二城とも、織田方が勝ち取った成果だった。


人質の交換は朝倉方の壺笠山城でおこなわれた。
ということは、朝倉・浅井+叡山側に有利にすすめられたのだ。
逆に信長は不利な条件でも和睦をしたかったことになる。

幕府からも三淵藤英(将軍義昭の重臣)の子が人質として朝倉側に渡されている。
朝倉+浅井+延暦寺は将軍義昭を信長側の人物と見ていたのだろう。
三淵藤英もツライな。


『12月13日、織田と浅井・朝倉との間に講和が成立し、織田勢は湖水を越えて瀬田まで退き、
なおかつ浅井・朝倉勢が高島郡に到着するまで人質を出して行路の安全を保証することが決まった。

翌14日、信長公はこの約定に従い瀬田の山岡景隆居城まで軍勢を退かせた。
これを見た敵勢も15日早朝から叡山を降り、北国へ引き上げていった。

信長公は大雪の中を行軍して16日に佐和山山麓の磯の郷(現滋賀県米原町)へ宿陣し、
翌12月17日久方ぶりに岐阜へ帰陣した。』と『信長公記』にある。

雪が降っていたのだ。
3カ月にわたった「志賀の陣」は終った。


信長はにっちもさっちもいかない戦況をなんとか終わらせることができたが、
当初の戦略目的であった対三好氏の「野田・福島攻め」が頓挫、
弟の信治や信興、森可成、坂井政尚といった重臣を失った。

朝倉、浅井+叡山からすれば、有利な戦況だったにもかかわらず成果は少なかった。
今から見れば、この「志賀の陣」が朝倉・浅井が信長に痛打を与える好機だった。
そのためには、信長と一戦まじえる覚悟が必要だったわけだが・・・


yoshiakiyuetsu12.jpg

足利義昭は信長からの講和の仲介要請を渋々受けた、という説がある。
本当だろうか?

表向きは渋々だったかもしれないが、内心は
「くっくっく・・・尾張守(信長のこと)め、泣きついてきよったわ。
それ見たことか不心得者め、この機会に将軍の権威を世に知らしめ、
尾張守(信長のこと)にもしっかりと再認識させようぞ・・・くっくっく・・・」ではなかったか。

調停は権力者の存在理由のひとつだ。

現在でも、当事者間の話合いで解決できなくなると裁判に持ち込むことになる。
当時は時の権力の裁定をあおぐことだった。
権威や権力が高ければ高いほど、そのお墨付き度は高い。

すなわち朝廷や将軍(武家の棟梁)の裁定が価値が高かった。
調停依頼をうけ、それをまとめることで権威は増すことになる(調停料も受け取るのだろう)。

ヤクザ同士の対立抗争でも調停依頼をうけることは、業界?での重要性を示すことになる。
それをウマくまとめることが出来れば、その人物の大物性はさらに増す。


二年前の永禄十一年(1568)義昭は御内書(将軍の書状)の宛名に
「御父、織田弾正忠殿(信長のこと)」とまで書いた。

義昭の信長感は表面は冷静を装っていたが悪化していた。
永禄十二年(1569)十月の喧嘩。
元亀元年(1570)の一月、信長は「五ヵ条の条書」を義昭に承認させている。
「五ヵ条の条書」は義昭の行動を封じる内容だった。




  1. 2020/03/31(火) 07:20:41|
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