ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

悪人づら

akunin12.jpg

久しぶりに似顔絵を画いた。

ハッキリ言って悪人づら、ボクにはそう見える。
すくなくとも、善人づらには見えない。

「思いや考え方が顔つきにあらわれる」という説を、ボクは疑いながらも、どこかで信じている。
それが本当なら、ということで背景は闇とした。

お近づきにはなりたくない面々だ。怖そう。

もっとも、「お前のような大衆の、それも下層のヤツなど、たのまれても願い下げだ!わかったか、このゴミ!」
と面々からいわれるだろうが、(それすらない)


こんなことを書くと、次のような言葉が聞こえてくる。

「見た目で人を判断してはいかんがねぇ(名古屋弁、いけないでしょ、の意)。
おじさんになれば、だれでも悪人面になるんだわぁ(名古屋弁、なるのです、の意)」

「そんなことをいっているから、お前は貧乏なんだ。お近づきになれば、有形無形の利益が望めるんだぞ!」

「政治は善人に出来るわけねぇだろ。お前は歴史を勉強したことがあるのか?
田中角栄は善人か?岸信介はどうだ?伊藤博文、徳川家康、織田信長、源頼朝、はどうだ?
スターリン、ルーズベルト、チャーチル、フランコ、毛沢東、カストロ、蒋介石、・・・は善人か?」

「お前は、この世が整然としたものだと思っているんじゃあないのか?矛盾だらけなんだぞ。
そもそも、人間そのものが矛盾だらけだ。」

「だから、政治を善人に委ねるとだなぁ、ハチャメチャになってしまうんだ。
いい年をして、そんなこともわからんのか!」

「こらぁ、午前11時だというのに、寝ぼけた顔をしやがって、シャキッとせんかぁ!アリナミンを飲め!」


そ、そのとおり、ごもっとも!

それでもなあ、
世界を左右できる立場にいるのが・・・悪人・・・とは・・・







  1. 2017/06/06(火) 07:25:07|
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テレビCM、好き嫌い

テレビCMを嫌う人がいる。

「今、いいところ!」というところでCM。
深刻な場面でCM。それが能天気(この字だったかな?)な内容だったりする(多い)。
連続性が断ち切られる。
内容も、見ている人の気持ちも。

テレビ局が、見ている人よりスポンサーの方を向いているのを、感じるのだろう。

テレビCMを嫌う気持ちはわかる。


でも、ボクは嫌いとまではいかない。
CMを短い映像作品と見れなくもない。
ただ、好き嫌いはある。


最近のお気に入りは、「ビタミン炭酸飲料MATCH 」のCM(大塚食品だったかな?)。

校舎の屋上で男子高校生が二人。

ひとりは天竜源一郎(声ガサガサで知られる元プロレスラー)が制服を着ている。

魔法にかけられて、オジサンになってしまった男子高校生が天竜だ。
(このCMの天竜は良い。彼でもっている。)

そこへ女子高校生が現れ、
「キスしたら戻るかも」と天竜(高校生役)の頬にキス。

しかし、オジサン高校生はもとにはもどらない。

ふりかえると、女子高校生の顔が天竜になっていた。

「青春はもどらないらしい」でオチ。


笑顔ひとつなく終わるとこがおかしい。
ほかにも好きなのがあるが省略。

baobabu32.jpg
<バオバブの木だ。
今回の記事の内容とは、まったく関係ない。
不思議な形なので画いてみたくなった。
木を画く練習にもなるし。

バオバブといえば、アフリカ、枝葉がてっぺんに水平に茂った大木をテレビで見たりする。
動物に葉を食べられないように(たしか?)、てっぺんに枝葉を集め、その下の幹には枝葉がない。

イラストはマダガスカルの石灰石上のバオバブ。
石灰石上のは背の低い釣鐘型になるという。>



かたや苦手なCM、そのひとつAmazonのCM。

若い夫婦と赤ちゃんがテレビを見ている。

ライオンの画像に反応する赤ちゃん。

飼い犬のラブラドールレトリバーが近づいてくるが、泣きだす赤ちゃん。

しかたなく、その親子を離れたところから、さみしく見つめるラブラドール。

そんなラブラドールを見たおとうさんが閃く。
スマートフォンでAmazonにアクセス。

取り寄せたフサフサカツラをラブラドールにかぶせると、ライオンのよう。
その姿でラブラドールが赤ちゃんに近づくと、今度は受け入れてくれた。

「やった!」という主人の顔。
それはAmazon primでした。

という内容。


「なにそれ!しょうもな!」
「甘っ!薄っぺらなほほえましい系、きもちわる!」
とボクは思った。(関西弁になってしまった)

現在流されているミニホース編も、「甘っ!薄っぺらなほほえましい系、きもちわる!」


ボクはネットで買い物をするときは、Amazon が多い。
ショッピングサイトとしてのAmazonは好きだが、
その大Amazon がこのCMを許可したのがボクにはわからない?

他にも気に入らないCMがあるが、省略。


以前は「わざとらしい・・・いかにも・・・大げさ・・・」といった演技や設定を、「臭い」といって毛嫌した。
「あいつの芝居は臭い」と言った具合に。
どうも、そういう意識が薄れてきているようだ。
AmazonのCMもそうだが、 最近、「臭い」のが多い。


苦手ついでに、ボクはディズニーランド(デズニーが正しい発音だったかな?)も苦手だ。
両手の指をイッパイ広げて振りながら、
「ミッキー!ミッキー!」「ドナルドーっ!」と叫んでいる、。
ウへ~勘弁して!やりたくない!

それをしなければ、「変なやつ?」と思われそうな同調圧力を感じる。
メンドクサイところだ。

「一日ぐらいいいでしょ?」と言われても
一瞬でもいやなのに、一日なんて、とんでもない。

天下のディズニーランド側に言わせれば、
「そんなメンドクサイおっさん、来てほしくねぇわ、バーカ!」なのかもしれないが?

脱線した。


テレビCMは「これでもか!」というぐらい、何度も繰り返し見せることで効果が期待できるのだろう。
深層心理までイメージをすり込み、なにかを買わせようという魂胆なのだ。

ということは、見飽きても、さらにウンザリするぐらい見せられることになる。
面白くもないオチを、何度もみせられることになる。

同じCMをどれくらい流すとウンザリ感が出てくるのか、研究して反映してほしいものだ(もう答えはでているのだろう)。
「auの三太郎」のCMが人気のあるのは、新しい設定がつぎつぎと流されているところにも、あると思う。
ウンザリ感が出る前に新しいのが流されるから。


CMの好き嫌いを好きかってに書いてきたが、もうひとつ
東京一極集中は、地方局で流れている地元のテレビCMを見ると、よくわかる。

地元のテレビCMには有名タレントは出てこない。
だからタレントの魅力でひきつけることが出来ない。予算がないのだろう?
石原さとみ、佐々木希、広瀬すず、長澤まさみ、桐谷美玲・・・は出てこない。
吉田羊、井川遥、斎藤由紀・・・も出てこないのだ。

地元のテレビCMは低質(クオリティーが低い)。
スポンサーの企業規模が小さいので予算が少ない(質は予算とは関係ないとも思うが?)
CM予算が多い大企業は地方には少ない。
テレビ局は低質でもCM契約がとれるだけマシ、という環境なのだろう?

地元のテレビCMはずいぶん前に作られたのが延々と流されている。
新作を作る予算がないのだろう?。

見ている人のウンザリ感は、意識すらされていないようにみえる。








  1. 2017/05/16(火) 07:36:25|
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野村合戦三(信長夜話・その90)

中華食材のテレビCMで、ぐっさんと回鍋肉?を取りあっているのは高畑充希だと思っていた。
「このCMのころと比べると、最近の高畑充希は大人びてきたものだなぁ・・・」とボクは思っていた。

ところが、そのテレビCMに出ているのは別人で、杉咲花というタレント(女優?)だという・・・
えっ!そうなの、えっ!似てるなあ!
共通遺伝子が多いのだろうか?



ということで、
前回の「野村合戦二」の続き、以下。

有名な「姉川の戦」は徳川氏の呼び名だ。
織田氏では地名の野村から「野村合戦」。
浅井氏では「辰鼻表合戦・たつがはなおもて」もしくは「野村合戦」。
朝倉氏では地名から「三田村合戦」と呼んだという。


元亀元年(1570)六月二十八日早朝

浅井勢六千は野村(地名)で織田勢一万五千と、
朝倉勢八千は三田村(地名)で徳川勢五千と、姉川を挟んで対峙した(兵数には異説あり)。

巳の刻(午前10時ごろ)、
野村(地名)では、浅井勢が姉川を渡河して織田勢を攻めた。
浅井勢は兵力でまさる織田勢を圧倒するも、しだいに織田勢に押しかえされる。
たまらず、浅井勢は北国脇往還を北へ退却した。

織田勢は小谷の近くまで追撃したという。
浅井勢の多くの死傷者は、このときに出たのだろう。

zanteki12.jpg
<傷ついたりして逃げおくれた兵は、よってたかってなぶり殺しにあっただろう。
野生の動物のように、
中には、命乞いをしたものもいただろう。

まだ息のある敵兵はとどめをさされた。
この戦に限らないが、戦ではねられた首のほとんどは足軽や雑兵だったといわれている。

こういった戦の後の処理は、このあたりまでではなかったか?
勝者は敗者の領地、領民を吸収して勢力を増していく。
大陸のような皆殺しの思想はなかっただろう。>




信長は再び横山城を包囲、これを無血開城させた。
定番として木下秀吉を置く。

さらに南の磯野員昌(かずまさ)が守る佐和山城(現滋賀県彦根市)を丹羽長秀に包囲させ、
翌年二月二十四日に開城させた。磯野員昌は退去。
員昌はのちに信長に仕える。

信長は戦に勝っても、勢いにのって小谷を攻めることはしなかった。冷静だ。
戦う可能性のある勢力は、他にもある。自軍の消耗を避けたのだろう。


「・・・首数の事、さらに校量(きょうりょう・比べ量ること)を知らず候の間、注するに及ばず候。
野も田畠も死骸ばかりに候。誠に天下のために大慶これに過ぎず候。」
六月二十八日付け、細川藤孝宛、信長書状(『津田文書』)

細川藤孝(ふじたか)は当時、将軍、足利義昭の側近だった。
藤孝は、この書状を義昭に見せるだろうと、信長は思っただろう。
信長の書状、それは将軍義昭への威圧でもあったのでは?

『津田文書』の他にも信長書状が残っている。
信長は「野村合戦(姉川の戦い)」の勝利を喧伝したのだ。


一方、「徳川対朝倉」を簡単に・・・

野村(地名)の西、三田村(地名)で、兵力の劣る徳川勢が朝倉勢とぶつかった。

徳川勢が攻める。
朝倉勢はジリジリと後退した。
朝倉勢の士気は低かったのだろう。

朝倉をのぞく三軍は当主みずからが出陣しているが、朝倉義景は出陣していない。
かわりに朝倉景健(従兄弟?)に総大将を任せた。

当主のやる気のなさは
上級指揮官→下級指揮官→兵へと、末端まで伝わるものだ。
事におよんでの朝倉義景の処し方をみると、戦国大名として、織田信長の敵ではなかっただろう。

そして、「野村(地名)で浅井勢が崩れた」という報が朝倉勢に伝わると。
朝倉勢は退却にうつった。良いところなしだ。

浅井、朝倉勢は退却の際、多くの戦死者を出した。
しかし、「姉川の戦い」から3か月後、浅井朝倉連合軍は志賀に出陣、信長と対峙している。
損害は限定的だったのだ。

「出る杭は打たれる」
この後、反信長勢力の抵抗が強くなっていく・・・


<番外>
姉川の戦いには、こんな説もある。

1、横山城を包囲していた織田信長は、浅井長政は戦いを挑んでこないだろうと思い、
姉川を背にして包囲を続けた。
それを、夜陰にまぎれたのだろうか?忍び寄った浅井勢が織田勢を背後から襲った。
野村合戦(姉川の戦いでの織田対浅井)は浅井勢の奇襲だった。
(ボクは信じていない)

2、初戦で織田勢を崩したのは礒野 員昌ではなく遠藤 直経(えんどう なおつね)だった。

3、徳川と朝倉勢はにらみ合っただけで、戦わなかった。
(本当かもしれない)



礒野 員昌(いその かずまさ)のこと
大永3年(1523年)~天正18年9月10日(1590年10月8日)

今回の野村合戦(姉川の戦い、織田対浅井)で先陣をつとめ、
優勢な織田勢相手に奮戦したといわれている礒野 員昌。

「礒野」はこの字だったようだ。

礒野氏は、代々京極氏の家臣であった浅井亮政の台頭に屈する形で浅井氏の配下に加わる。
父・員宗の死後、叔父の員清が家督を継ぎ、その跡を員昌が継いだ。

員昌は佐和山城(現滋賀県彦根市)を本拠とし、対六角氏戦で度々武功を重ねた。
(佐和山城は「関ケ原の戦」の時は石田三成の居城)

元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いで、員昌は先陣をつとめ、織田勢相手に奮戦する。
しかし、多勢の織田勢に押しかえされ浅井側は総崩れとなり敗退した。(浅井勢の敗因には他説あり)
員昌の猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残る(『浅井三代記』)。
(「員昌の姉川十一段崩し」は史実としての評価は低い)

野村合戦の後、礒野 員昌の佐和山城は敵中に孤立。
翌元亀2年(1571年)2月24日、佐和山城を攻撃され信長に降伏した(『信長公記』 )。

降伏後、員昌は佐和山城と引き換えに、近江国高島郡を与えられた。
この頃、織田家の宿将は、琵琶湖周辺に配置されていた。
この高島郡の拝領は、「横山の木下藤吉郎、佐和山の丹羽長秀、安土の中川重政、長光寺の柴田勝家、
永原の佐久間信盛、宇佐山の明智光秀」と同等という破格の待遇であった。
織田側も員昌を認めていたのだろう。

それにしても、ついこの前まで敵将だったのに・・・
員昌は、なにかスゴイおみやげをもっていったのだろうか?
但し、信長の甥の津田信澄を嗣養子とさせられている。
すなわち、次の代は津田信澄(織田一族)が嗣ぐことになる。

その後、員昌は天正元年(1573年)9月の杉谷善住坊(織田信長を狙撃した男)の捕縛。
天正3年(1575年)8月の越前一向一揆の鎮圧に従軍。

しかし、天正4年(1576年)正月には、津田信澄が高島より上洛しており(『兼見卿記』)、
また、同年12月に朽木商人宛に、天正5年(1577年)閏7月には横江祟善寺宛に、津田信澄が安堵状を発行している。
この頃には員昌の権益は縮小、または家督の譲渡が行われていたと考えられる。

天正6年(1578年)2月3日、員昌は信長の意思に背いて叱責され出奔、
領地の高島郡は津田信澄に与えられた。
信長の叱責の内容は不明。一説には家督を譲るよう、信澄や信長が迫ったのを拒んだためという。

出奔後の員昌の行方はわかっていない、
「本能寺の変」において信澄や信長が亡くなると、高島郡に戻って帰農し(帰農ですよ!)天正18年(1590年)に死去した。
68歳だった。

礒野 員昌は畑の空を見上げながら、なにを思ったのだろうか・・・(よくある表現だな)
ボクは映画「ゴッドファーザー」で、年老いたビトー・コルレオーネ(マーロンブランドが演じた)が、
トマト畑で亡くなるシーンを思いだす。


子の礒野行信以下の一族は石田三成、後に藤堂高虎(伊勢、津藩藩祖)に仕えた。
藤堂高虎はこの「野村合戦」に浅井勢の足軽として参加、手柄をたて浅井長政から感状をあたえられている。
その後、高虎は天正年間に、員昌に仕えていたことがある。

藤堂高虎はつぎつぎと主君を変え、慶長5年(1600年)の「関ケ原の戦」当時には大名になっていた。
足軽として参加した「野村合戦」から30年後だ。
豊臣秀吉までとはいかないが、大化けした。
高虎は、自分を正当に評価しない主君を見限って変えた、という逸話がある。
脱線した。

礒野 員昌の孫の行尚は、大坂の陣で藤堂軍に属して八尾・若江の戦いで増田盛次を討ち取る手柄を上げている。
娘は小堀正次に嫁ぎ、茶人・小堀政一を生んでいる。




谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。







  1. 2017/04/25(火) 12:40:43|
  2. 信長夜話
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野村合戦二(信長夜話・その89)

今年も「桜の季節」をむかえることができそうだ。
若いころには、そんなことを思いもしなかった。
二か月もすれば初夏、六月がやってくる・・・



ということで、前回の「野村合戦一」からの続き・・・


有名な「姉川の戦」の実相はわかっているようでわからない?
実際に参加してもわからなかっただろう。

「姉川の戦」は徳川氏の呼び名だ。織田氏では地名の野村から「野村合戦」。
浅井氏では「辰鼻表合戦・たつがはなおもて」もしくは「野村合戦」。
朝倉氏では地名から「三田村合戦」と呼んだという。

「姉川の戦」はこうではなかったか?

野村合戦(織田対浅井)を中心に書いてみた。
ボクの想像だ。以下。



元亀元年(1570)六月二十七日夜、浅井勢と朝倉勢は横山城の後巻き(自軍の城を包囲している敵を外側から攻めること)
のため、姉川近くに移動、陣をしいた。


横山城を包囲している織田勢に幾人かの物見(偵察)から、つぎつぎと報告が入る。
「浅井勢がこちら向かっている。その数、一万ほど(戦う前の敵は大きくみえる)」と・・・


「おおっ、新九郎(浅井長政のこと)のやつ、やる気だな」(長政は信長の義弟)
信長は浅井長政は小谷から出撃してはこない、と思っていた。
七日前、小谷を包囲したときには長政は信長の挑発には乗ってこなかった。
浅井勢は織田勢より劣勢だ。平地での戦は浅井勢にとって不利だ。


元亀元年(1570)六月二十八日早朝

浅井勢六千は野村(地名)で織田勢一万五千と、
朝倉勢八千は三田村(地名)で徳川勢五千と、姉川を挟んで対峙することになった(兵数には異説あり)。

軍勢の戦闘員は全体の5割とも4割ともいわれる。それ以外は補給を担当する輜重隊(しちょう)などだ。
だとすれば、織田の戦闘員は七千、徳川は二千、浅井は四千、朝倉は四千、ということになる。

浅井を四千にしたのは地元だから、補給もしやすかったと想像した。
織田、徳川、朝倉は遠征だから輜重に従事するものが多かっただろう。
そうだとすれば、戦闘員の兵力差はあまりない。


浅井長政は朝倉氏からの援軍が来たこの時が、信長に戦いを挑む好機だとおもっていた。
朝倉は浅井と同盟関係にあるものの、いつも援軍を差し向けるという保証はない(援軍を差し向けるのにも負担がかかる)。
雪の季節や農業の繁忙期(兵のほとんどは農業従事者)には難しくなる。

前述したように織田と浅井の戦闘員の兵力差はそれほどはない。
浅井勢の士気は旺盛だ。
うまくいけば、織田勢を突き崩すことが出来るかもしれない?
そうなれば、横山城守備隊も織田勢の背後から戦闘に加わるだろう。
と長政は想像したのではないのか?

信長の首を上げることはできなくても、
織田勢に痛撃を与えることが出来れば、しばし信長は手を引くだろう。
その間に軍を整え、反信長勢力との協力体制を固めて、信長に対峙しようと長政は思った。


信長は横山城に対して美濃衆を抑えにおいて、
姉川の対岸の浅井勢に対するため、横山城を背にして陣を組み直した。
龍ケ鼻の近くが信長の本陣だったという。
「龍ケ鼻・たつがはな」とは横山城のある丘陵の先端の地名。「辰鼻」という表記もあるようだ。


<織田の布陣>
先頭から、
坂井政尚(2,000)、池田恒興(1,000)、木下藤吉郎(1,000)、柴田勝家(2,000)、森可成(2,000)、
佐久間信盛(2,000)、織田信長本隊(3,000)、丹羽長秀(不明)
横山城への備えとして氏家直元、安藤範俊などの美濃衆(合わして1000)

<浅井の布陣>
先頭から
磯野員正(1.000)、浅井政澄(1,000)、阿閉貞秀(1,000)、新庄直頼(500)、浅井長政本隊(3,000)
横山城守備として
大野木秀俊、三田村邦宏、野村直元、野村直次、(500)

<徳川の布陣>
先頭から
酒井忠次(1,000)、小笠原長忠(1,000)、石川数正(1,000)、徳川家康本隊(2,000)

<朝倉の布陣>
先頭から
朝倉景紀(2,000)、前波新八郎(2,000)、朝倉景健本隊(4,000)

各武将の布陣はこの説に従うことにする(他の説がみあたらなかったから)

浅井 6,500、朝倉 8,000、織田 15,000、徳川 5,000、ということになる(非戦闘員もふくむ)。
軍勢の正確な数は当時でもわからなかっただろう。兵数はボクが適当に割りふった。

anegawafukan22.jpg
<姉川を空から見たところ。上が北だ。
右手前の下の丘陵が「龍ケ鼻」。この近くに信長の本陣があったといわれる。
絵には入っていないが、下(南)に横山城があった。

絵の中ほどを左右(東西)にくねりながら流れるのが姉川。
絵の上部(北)に大依山(おおよりやま)。その左(西)に小谷。

「龍ケ鼻」から姉川の間に織田勢は数段の陣をしいたといわれている。
姉川では織田勢と浅井勢の先鋒が衝突している。

その上、姉川の北に浅井の各隊と長政本隊。

姉川を左(西)にたどると、徳川勢と朝倉勢がぶつかっている、ところとした。>



姉川は、川幅200m、彼我の距離800mぐらいではなかったか?
(現在は管理されて水量は少ない)

朝もやのなか、姉川の対岸に敵の前衛が見える。

いくつもの集団がみえる。
多くの旗指物が風に揺れている。
使番(つかいばん・伝令)が騎馬で走る。
移動する集団、武具がすれる音、馬のいななき、


野村(地名)では浅井勢(磯野員正隊、1000)から攻めかけたのだろう。

磯野隊(浅井)最前線の指揮官が激をとばす。

「いいか!尾張のへなちょこどもに浅井衆の力を見せてやれィ!」
「お前たちの行く末は、この戦場(いくさば)にある。褒美はのぞみしだいぞ!」
「うぉ~ヴぉ~うぉ~」と兵が答えた。
鬨の声だ。

前線の各隊ごとにあちこちで鬨の声があがる。
鬨の声は兵の士気を鼓舞する。そして敵への威圧でもある。

tokinokoe12.jpg
<イラストは鬨の声をあげる指揮官と長槍隊とした。
この部隊の指揮官は幾度も戦を経験したベテラン
長槍衆はムシロを背負っている。野宿のときなどに地面にしいた。

他方、鬨の声をあげず、シーンと沈黙する部隊もあっただろう。それも不気味だ。>



「前へーっ!」
磯野隊(浅井方)の長柄槍衆が前進、渡河をはじめる。
声はかき消されることがあるから、大太鼓(押し太鼓)を叩いたのかもしれない。
「ドーン、ドーン、ドーン、」は前へ。
「ドンドンドンドン」は引け、の合図。

最前列には、敵の鉄砲や弓矢を防ぐため、楯をもった足軽が並ぶ。
その後ろに長柄槍衆、三段の横陣、兵どうしの間隔は狭い。槍は肩に担いでいる。

川の浅いところを足元を確かめながら渡る。
川の音、はためく大小の旗、鎧や武具がすれる音、兵の息遣い・・・

ある槍衆は腰の竹製の水筒に手をやった。
喉がカラカラに渇くのだ。


槍衆の背後の指揮官が大声を上げる。「いいか!押しまくれ!下がるものは斬る!」
何人もの甲冑武者が腰のものを抜く。槍足軽への脅しだ。
ドラマにある光景だが・・・

戦場では、恐ろしさと興奮が入り混じった感情が支配する。
普通、道で野犬にであっても怖さをおぼえる。
ましてや敵は武装した人間だ。怖くないわけがない。

イギリス陸軍は、軍曹を恐ろしい上官として兵の意識にに刷り込んだという
敵と対峙したとき、後ろでスゴイ顔で睨みつけている上官の軍曹より、前にいる敵兵のほうがマシ、
と思わせるためだという。以前、そんな記事を読んだ覚えがある。

おそらく本当だろう。西欧の軍隊を手本とした旧日本軍にも同じことがあったのだろう。
それが旧軍の新兵イジメに影響したのではないだろうか?とボクは想像している。

脱線した。
怖じ気づかないよう指揮官が兵を脅したのではないだろうか?
一人の怖じ気が全体に伝わり、崩れることを恐れたのだ。


映画やテレビの合戦シーンというと、必ず兵が走るが、そんなことはなかったのでは?
走っていては、敵とやり合う前に息が上がって戦えない。
甲冑武者の装備は20kg~30kgだった。
足軽具足は5kg+武具+携帯食糧など=10kg~15kgぐらい?だったと想像する。

走る必要もないのに走ったりはしない。歩く速度で押していく。
敵兵とやり合うときに力を出す(出させる)のが自然だろう。


渡河してくる磯野隊(浅井)の長槍衆が川の中ほどを過ぎたころだった。
対岸の藪や竹束などの遮蔽物の陰から、連続した銃声、閃光と煙があがる。
坂井隊(織田)の鉄砲隊が撃ちかけた。

想像を超えた数の鉄砲の射撃だったのではないだろうか?
のけぞる兵、腕をおさえてうずくまる兵、血しぶきをあげて倒れる兵、・・・

すると、浅井側の長柄槍隊の背後から、浅井の鉄砲隊がその発砲地点をめがけて応戦する。援護射撃だ。
前進する槍衆の背後から撃ちかけるのだから、味方の槍衆を誤射することもあっただろう。
戦はそういうものだ。第二次大戦でも味方に撃たれた例はいくつもある。

種子島(火縄銃)の最大射程500m、有効射程200m、殺傷射程80m、と想定した(異説あり)


磯野隊(浅井)の槍衆が鉄砲の射撃をうけて前進がとまった。坂井政尚(織田方)の槍衆が対岸に現れる。
織田の誇る、三間半長柄の槍衆だ。揃いの装備、旗指物、織田の足軽の装備は美しい。
織田は金持ちなのだ。

nagaeyari.jpg
<イラスト左が三間半長柄槍、約6m30cm。イラスト右が三間の長柄槍、約5m40cm。
槍をもつ足軽は1m60cmの身長とした。三間半長柄槍は身長の4倍だ。
三間柄が一般的だった。信長は三間半柄を長槍隊に装備させたという。
「弱兵は接近戦を嫌うので長い槍を装備させた」という説がある>



最前線の部隊は「御貸具足(足軽からみれば御借具足)」という武将が用意した具足を装備していた、と想像する。
最前線には体力があり、訓練をほどこした兵が配置されたとおもわれる。
揃いの装備は敵への威圧にもなる。

当時は武将も部隊も目立つことが必要だった。そのいでたちは派手で個性的だったろう。
「御貸具足」は無制限にあるわけではないので、二線級の部隊の装備は不揃いだったのではないだろうか?



当時の戦では、長柄槍隊こそが決戦部隊だった。その勝ち負けが戦に影響した。
鉄砲も有力な兵器と認められつつあったが、
長柄槍隊の前進を援護したり、敵の前進を阻止する役割をになった。

磯野隊(浅井)の槍衆が坂井隊(織田)の槍衆とぶつかる。
両軍とも、一斉に槍を振り下ろす。目標は敵の槍足軽の頭部だ。

この場合、長柄の織田槍衆のほうが有利だが、叩きつけたり振り上げたりするには体力がいる。
叩きつける回数では織田の長柄槍より短い浅井の槍のほうが勝ったのではないだろうか?


最前線の槍衆に疲れがみえる。
「二番、前へーっ!」
背後の新手の槍衆が入れ代わって前に出る。

新手の槍衆が敵に向かって、槍を叩きつける。
怒鳴り声、槍が叩きつけられる音、川の水が飛び散る、鎧のすれる音、
槍がしなって風をきる音、喚声、うめき声、血の匂い・・・

yaritai12.jpg
<槍衆の戦いは我慢くらべだ。
叩きあううちに、 横にいた足軽が陣笠を割られて倒れたり、引き気味になったりすると、
「押されているのではないのか?」という不安がはしる。
接戦では敵の勢いのほうが強いと感じるのが戦場心理だろう。

さらに数人が倒れたりすると、槍衆が崩れはじめる。
逃げ遅れれば命とりになる。
槍衆は集団であることが重要なのだ。>




しだいに坂井隊(織田)の槍衆が押されはじめる。
磯野隊(浅井)は姉川の対岸に届いた。渡河に成功した。
最前線の槍衆が崩れはじめると、後衛に伝染する。

坂井隊(織田)は後退してくる前衛の槍衆に代わって、後衛の槍衆が前に出る。

しかし、勢いにのる浅井の槍衆は坂井隊(織田)の後衛も押しかえす。
ついに織田の最前線、坂井隊が崩れはじめる。


先陣の磯野員正(かずまさ)隊の奮戦に、後に陣をしいていた浅井政澄隊(1,000)、阿閉貞秀隊(1,000)
も姉川を渡河して加わる。
坂井隊(織田)の後ろに布陣していた池田恒興隊(織田)は、後退してくる坂井隊の影響で陣形が乱れる。
浅井勢は押しに押した。勢いのあるうちに勝戦にもちこみたいのだ。
池田隊(織田)も後退しはじめる。

その池田隊(織田)の後ろにいたのは木下藤吉郎隊(織田)だった。使い番(伝令)が走る。
木下隊とその後ろの柴田勝家隊(織田)へは「敵(浅井)の前進をくいとめよ!」
後退した坂井隊と池田隊には「たて直して側面から攻めよ!、包み込め!」と、

木下隊(織田)と柴田隊(織田)は前進してきた浅井の諸隊とぶつかった。
浅井勢の前進阻止のため、鉄砲射撃を加えたいのだが、
後退してくる坂井隊(織田)、池田隊(織田)が混じっているから、むやみに射てない。


両軍の押したり引いたりが続く。
織田は、さらに森可成隊(織田)も加わる。ここが勝負どころだった。

見透しのきく平地での戦いは、兵力のまさる織田方が有利だ。
すこし疲れが見えはじめた浅井勢の前に、織田勢の新手が次々と現れる。

蹴散らされた坂井隊(織田)、池田隊(織田)も態勢を整えて、縦に伸びた浅井勢の側面を攻撃しはじめる。
浅井の先頭部隊が背後を織田勢から側面を攻撃されたことに気付く。不安がはしる。
もし包囲されれば孤立してしまう、と


浅井勢の前進が、ようやくにぶりはじめる。
すると前面の木下隊(織田)と柴田隊(織田)が勢いづく。
ジリっと浅井勢が後退しはじめる。

さらに浅井勢の後退がハッキリしてくる。
姉川の岸まで押しかえされる。

浅井の兵が姉川を渡って対岸へ向かうものが出てくる。
逃げ遅れれば、よってたかって、なぶり殺しにあうからだ。
群れから遅れたり、傷ついた兵は格好の獲物だ。


不安が浅井勢を包む。。
われ先に兵が姉川を渡って逃げる。
指揮官が「引くなぁ!もどせぇ!」と怒鳴っても、崩れたった兵を引き留めることは出来ない。
浅井勢は崩れた。

織田勢は追撃にうつった。
織田の鉄砲隊の発射音が響く。

次回に続く





谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税
東郷隆・上田信 著「戦国武士の合戦心得」講談社文庫¥495+税
を参考にしました。






  1. 2017/04/04(火) 13:38:41|
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野村合戦一(信長夜話・その88)

3月初旬、近くの歩道橋の上から西を見る。ここにくると習慣になっている。
その歩道橋は濃尾平野の北端、丘陵地の住宅街にある。

名古屋の中心部のビル群が見える。そのむこうに養老山脈、
尾根をたどると南端は、三重県の多度から桑名だ。
逆に北に目をやると、養老山脈のむこうに伊吹山が見えるはずなのだが、
その日は白く濁って見えなかった。雪だろう。

そういえば、「雪中の合戦」は、あまり聞いたことがない。
戦国の世でも、雪の日には、やりたくなかったのだろう。

小谷は伊吹山の西にある・・・




元亀元年(1570)六月二十一日、織田信長は浅井氏の居城、小谷の近くの虎御前山に陣をしいた。
浅井長政の寝返り(信長からみれば)に、敦賀から京へ逃げ帰ってから二か月後である。

信長は小谷の備えを見て、力攻めで落とすのは難しいと思ったのだろう。
信長はジックリ攻める作戦に変更。足がかりとして小谷の南9kmにある横山城(浅井側)に目をつけた。
二十二日、陣を払い、織田勢は移動を開始。横山城を包囲するためだった。

それを小谷の浅井勢が追撃する。織田勢の殿(しんがり)軍が奮戦して撃退(八相山の退口)。
無事、横山城近くの龍が鼻(たつがはな)へ移動した。
六月二十四日、横山城攻めが始まる。

そのころ、徳川家康の援軍五千が到着した。
一方、浅井側にも援軍が到着する。朝倉景健(かげたけ)の八千だった。

有名な「姉川の戦い」の序章だ。

anegawa412.jpg
<イラスト上段、左は浅井長政(このとき26歳)。右は織田信長(このとき37歳)。
下段、左は朝倉景健(このとき35歳)、右は徳川家康(このとき29歳、若いねぇ!)。

朝倉景健は肖像画が見当たらなかった。しかたがないので、面頬(めんぽ・顔面の防具)をつけてもらった。
画きながら思ったのだが、これでは誰だかわからない。
戦場で影武者を見破るのはムズカシかったろう。>



普通、「姉川の戦い」は以下のごとく語られることが多い。

二十七日の夜に浅井・朝倉軍は移動、浅井勢六千は野村(地名)で織田勢一万五千と、
朝倉勢八千は三田村(地名)で徳川勢五千と姉川を挟んで対峙することになった(兵数には異説あり)。

1、二十八日未明、野村では浅井勢が織田に攻めかかり、三田村では徳川勢が朝倉勢に攻めかかった。

2、浅井勢の勢いすさまじく、織田の13段の備えが11段まで崩された。

3、三田村で多勢の朝倉勢相手に押していた家康は、榊原康政に命じて側面から攻めさせた。

4、側面をつかれた朝倉勢はもろくも崩れ、さらに浅井勢も崩れ、ともども小谷に向けて敗走した。


テレビドラマなどでは、ほとんどこの説に従っているようだ。

徳川勢大活躍!、しかし、これでは徳川勢がカッコ良すぎる。

『徳川実紀』や『甲陽軍鑑』『甫庵信長記』などを参考にしたのだろう。

『徳川実紀』は徳川幕府の公式文書。
文化6年(1809年)に起稿、
嘉永2年(1849年、4年後にペリー来航)12代徳川家慶に献じられたという。
「姉川の戦い」から約280年後に成立した。280年後ですよ。

すでに、家康は神格化されていた。神君だ。
「姉川の戦」の部分は、徳川幕府へヨイショするために脚色した、と疑われている。
『甲陽軍鑑』『甫庵信長記』は史料としての評価は低い。

この説は、家康をカッコよくデッチあげた可能性が高いと見られている。


また、
浅井勢の士気が高かったのはうなづけるが、いくらなんでも織田勢が弱すぎる。
織田勢は浅井勢よりはるかに優勢だ。総勢の数字上は約3倍。

奇襲ではなく強襲(敵が待ち構えてるところを攻める)、正面攻撃だ。
さらに戦場は姉川の川原、見透しのきくところである。

直前の二十二日、小谷からの移動中、織田の殿軍は浅井の追撃を退けている(八相山の退口)

信長の軍事力の中核は尾張衆や美濃衆だった。
美濃衆は斎藤義龍の時代、信長も手をやいた。強かった。

「肥沃な土地の兵は弱く、貧しい土地の兵は強い」という説があるが、疑わしい。
もし織田勢が弱兵であったとしても、戦は兵の強さだけで勝てるわけではないだろう。
作戦、士気、経済力、装備、指揮官への信頼、過ち、偶然・・・などなど、

iza111112.jpg
<イラストは馬上の若武者とした。

はためく旗、馬の呼吸、鎧の擦れる音、
静寂、草の匂いがする

敵の前衛が見える。
多くの旗指物がゆれている、兵の機動、鬨の声が聞こえてくる。

戦場に老人はいなかっただろう(指揮官をのぞいて)。
十代後半から三十代ではなかったか?

精兵(せいびょう)というとき、それは兵の年齢も指していたのではないだろうか?と思った。
体力差のある兵が混在していると、作戦が立てにくいから。>



では、資料性が高いと言われる『信長公記』は「姉川の戦」をどう書いているのだろうか?以下。

『そのような中、越前より朝倉孫三郎景健率いる八千の援軍が到着し、
小谷城の城東に位置する大依山(滋賀県浅井町)に陣を張った。

待ちわびた援兵の来着を知った浅井長政は、城を出て朝倉勢との合流を果たした。
 朝倉勢八千に五千の浅井勢が加わり、都合一万三千の軍勢となった浅井・朝倉勢は、
六月二十七日払暁大依山の陣を払って行動を開始した。

陣を捨てて退却するものとも考えられたが、事実は相違した。出撃のための陣払いであった。

 二十八日未明、浅井・朝倉勢は姉川手前の野村・三田村の郷に移り、二手に分かれて備えた。
これに対し織田・徳川連合軍は、西の三田村口に位置した朝倉勢には徳川家康が向かい、
東の野村口に展開した浅井勢には信長公直率の将士と美濃三人衆が相対した。

 卯の刻(午前6時)、織田・徳川軍は敵勢ひしめく丑寅の方角へ向かって一斉に駆け出した。
敵勢も姉川を越えて突撃し、ここに姉川合戦の火蓋が切られた。

戦闘は双方が押しつ押されつの大乱戦となり、戦場には黒煙と土埃が巻き立ち、鍔が割れ槍が交差する音がこだました。
そして後世に語り継がれるであろう数々の武功が生まれ、そのたびに名のある武者が命を落としていった。

 数刻にわたる激闘は、最後に織田・徳川軍が浅井勢を追い崩して終わった。
浅井勢は青木所右衛門に討ち取られた真柄十郎左衛門や竹中久作に討ち取られた遠藤喜右衛門をはじめ、
前波新八・黒坂備中・浅井雅楽助ら他国まで名の聞こえた将の多くを失った。

この戦で織田勢が討ち取った首の数は、面立ったものだけでも千百余にのぼった。

 織田勢は退却してゆく浅井勢を追撃して小谷までの五十町を駆け抜け、小谷では山麓へ火を放った。
しかし小谷城そのものは切り立った高山の上に立つ難攻の城であったため、
信長公は城攻めまでは無理と見て追撃をそこで打ち切り、
横山城の攻囲にまわった。横山城はひとたまりもなく開城した。

 信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、みずからは七月一日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。
佐和山では四方に鹿垣をめぐらし、城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、
北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方より攻撃させた。

 七月六日(正しくは七月四日)、信長公は数騎の馬廻のみを引き連れて京へ入り、公方様へ戦勝の報告をおこなった。
京には数日滞在して戦勝参賀の使者の応対などをし、八日に岐阜へ帰還を果たした。』(『信長公記』現代語訳)

以上が『信長公記』の記述。
わかったようでわからない?
実際に「姉川の戦」に参加した人にきいても、その実相はわからなかっただろう。

『信長公記』には徳川勢の大活躍は書かれていない。
「それは、筆者の太田牛一が主君の信長に遠慮したせいだ」という説もあるが、どうだろうか?



「姉川の戦」はこうではなかったか?
野村合戦(織田対浅井)を中心に書いてみた。
ボクの想像だ。以下。


「姉川の戦」は徳川氏の呼び名だ。織田氏では地名の野村から「野村合戦」。
浅井家では「辰鼻表合戦・たつがはなおもて」もしくは「野村合戦」。
朝倉家では地名から「三田村合戦」と呼んだという。


元亀元年(1570)六月二十七日夜、浅井勢と朝倉勢は横山城の後巻き(自軍の城を包囲している敵を外側から攻めること)
のため、姉川近くへ進軍。

横山城を包囲している織田勢に幾人かの物見(偵察)から、つぎつぎと報告があった。
浅井勢がこちらにやってくる。その数、一万ほど(戦う前の敵は大きくみえる)、と・・・

次回につづく


<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。









  1. 2017/03/14(火) 07:02:12|
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